どっちの方向を向いているかを模索して生きてきて、これからもまた、その延長上を歩んで行くだけの話なんだよ。恋愛とはなんだろう。才能はあるのかないのか、人生ってどうゃりゃいいのかと、いつも考えたり迷ったりしているから、生きていくんじゃないのかねえ、お嬢さん。この反面、世の中には、親切とお節介をとりちがえている若者も臨分いるなあと思うよ。-』わこの間も、街頭録音をやってたんだ。すると、伯い顔の三十ぐらいの男がやって来たんだ。つかつかと一直線にやって来てだね、おれに向かって、なんといったと思うかねえ。「藤本サン、あなたは直木賞作家ではありませんか。直木賞作家たるあなたが、街頭でくだらない質問を放っているのは、文学者としては恥ではありませんか。すぐにテレピやラジオの仕事はやめるべきではないですか」どうやら、その男は同人雑誌に首を突込んでいて、作家志願らしい。大きなベγダコなんかが出来ていたもんだよ。おれは、困惑する前に、吹き出しかけたものだったよ。この彼は、どうやら、文学者という言葉に酔っているらしい。文学者があらゆる人聞の上に立っていると思っているらしい。こういうのがいるから、実に厄介なんだよ。自分のやっていることに自信をもつのはいいんだが、それが昂じてくると、それ以外の人聞を実に卑下した眼差で眺めていこうとするんだからやり切れないね。この男は、おれが街頭録音なんかやっていると、文学者全体の権威にかかわるとでも思っているらしいんだなあ。こういうお節介は、彼の人生にを使って、はたして、なにをもたらすのかねえ。他人の人生を批判し、非難したところで、なにも自分の中にはもたらさないと思うんだがねえ。そこで、おれは、そいつの耳許に曜いてやったものだ。「そうかねえ。お前さんのいっているのは、親切なのか、お節介なのか」すると、その男は、当然のことを聞くなといわんばかりの表情になって、「親切ですよ」といったものだった。「馬鹿野郎 献が自分のロで親切だという奴に親切な奴がいたためしはないぜ」そいつは、むっとした顔つきで、どこやらへ消えていったがね。こういう人聞は一体なんの目的を持って生きているのかねえ。親切の押し売り屋、お節介屋と首に札でもかけ、背には「自己喪失」の看板でもかけておけば、世の中は平和だと思うんだがねえ。ま、世の中には、男でも女でもお節介なのがいて因るなあ。お節介入生とでもいうのがいるなあ。

中身のない奴ほどお節介をやくお節介屋を見ていると、自己管理の精神が一本抜けているように思える。心の中が整理出来ていないから、ああいうことになってしまうようだなあ。「ダレソレさんが離婚しそうだ」とか、ドコソコの家が抵当に入ったとか、一日中、他人の噂だけで過している女性がいるもんだね。よくもまあ、飽きないものだと思うよ。一日の中に、あらゆることを雑多に仕入れてきて、頭の中に、ぎゅうぎゅう詰め込んで、自分を忘れてしまっている人が多いんじゃないかなあ。こういう人は、きっと、自分がなにを考え、どういう行動をすれば、一日がどれだけ充実するかを考えない人のような気がするんだよ。他人の身の上に起った出来事が面白いというのは、自分の中になにもないからそういう他へ向ける興味が増してくるのじゃないだろうか。自分の内部に「変化」があれば、他人の不幸を笑ったり、他人に親切どかしにお節介なことをしたりしないものだと思うんだよ。それが、自分の内部が、だらけ切って、弾力性のないゴム紐みたいになっているから、ついつい他の部分に目がはしって、面白がったりするんじゃないかなあ。お嬢さん、こういう女性が結婚すれば、夫に隣近所の噂話を戦果のように喋ったり、また、夫に会社関係の人たちの噂を強要したりして、それが唯一の話題になっていくんじゃないかなあ。なんの未来の発展もない家族が生まれてくることになるわけだよ。「あのね、あの入ったらねえ:::」と他人の行動をあげつらって、どうしようもなくなってしまうわけなんだよ。こういう家族から、一体なにが生産されるのかねえ、お嬢さん。引っ掻きまわす楽しみはょせよそれで、今度はママになるわけだけれど、子供に自分の夢を託そうなんてことになるわけだ。英才教育なんてことをやりはじめる。それも、両親に、ちゃんと基礎的なものが備わっていての英才教育じゃないんだなあ。これとて、アル場所に子供を連れて行ったり、通わせたりして、アルモノを習わせるようにするわけなんだなあ。バイオリンとかピアノとかを習わせて、これが得意なんだから困るんだよ。一番迷惑しているのは、当の子供だよ。才能を開発させていると母親は信じて疑っていないのだが、子供の方は、無理矢理いやなものを仕込まれているだけで、コマ シャクレタ子供が誕生してくるんだよ。大人の会話を小耳に挟んで、大人の会話に割り込んでこようとしたり、友人の悪口を親に告げたのです。

大人の世界に同じ位置を得たと錯覚するような子供をつくってしまうんだよ。つまり、母親を大型お節介屋とするなら、小型お節介屋をつくってしまうんだね。お嬢さん、おれは、なにも他人のことは捨てておけといってるんじゃないんだよ。そりゃ、他人が囲っていれば、手を差し伸べるのが人間だよ。しかし、他人が困っていないのに、そんなことをすると大変なことになるなどといって、引っ掻きまわす楽しみだけは心の垢だから、洗い流してほしいんだよ。非男と災男を見分けようや伯こわさが男の男たる所以だよ・・・:お嬢さん、わが非行中年紳士は、年齢と共に、あつかましくなってきたなあ。とくに、パ!とかクラブとかで、ホステスやママを相手に狼談をやったり、抱きついたり、だよ。ま、そんな軽蔑した顔で、おれを見ないでくれ。お嬢さんの親父さんもじようなことをやっているわけよ。やっていない人は、心の中で、やってみたいなと思いながら、勇気がないだけの話なんだよ。おれは、昔から、といっても、三十二、三歳頃から、クラブやパル』、「おい、今夜は先に帰っておれよ。風呂をわかせておけよ」ル’と、真顔でホステスにいったりしたもんだよ、同にいく ’。これも次第に年齢を食ってくると、堂々とした演技になって、客に向かって、「いや、いつも、おれの礼子がお世話になっています」などとやるようになった。純情なお客は、一瞬、えっという顔になって、「あ、この店は、藤本サンが出させているのですか」などという。「いや、まあ、ね」ということもあるが、興がのっていると、さもオーナーのようにふるまっているわけなんだ。「そうなんですよ。なかなか当今はいいホステスはいないし、人件費が馬鹿になりませんよ」などというのである。「な、ママ、売り上げが横遣いの傾向だよな」というと、ママの方も、心得たもので、「そうねえ、あなたのお友だちからは、あまり頂けないしねえ」などというのだ。だまこれで、おれは何人か、いや、もう何十人か臨しているんだよ。半分ぐらいどうも信用なは見磁られたが、半分の半分、つまり‘四分の一、ぐらいの人は、さっているらしい。その中には、各界の大物もいらっしゃる。この間も、東京で森繁久弥さんに会った時、「大阪の、あの店は、うまくいってるかね」といわれたものだ。「え、まあ、不況でして:::」と、答えておいた。森繁さんとは、踊し、踊されの二十年ということになるたのんじゃないかと思うんです。

これもまた愉しということなんだよ。が、よく考えてみれば、女たちが安心して近付いてくるから、こういうふうなお遊びが出来るというものだが、若い頃は、違っていたねえ。「あんたの目、伯いわア」とか、「やくざみたい。野良犬みたいや」とホステスたちに敬遠されたもんだよ。が、今になって考えてみると、は、決して敬遠じゃないんだなあ。この伯さが、男の男たる所以だと思うんだよ、お嬢さん。れ伯がられていた方が、男としては、認められていたということになるんだなゑて曇 つル』。こいつが薄れていくと、もういけないと思うんだよ。女は安心して近付いてくる。人生相談なんかをもちかけられて、如何にも人生の達人みたいに、うんうんと額いたり、アドバイスなんかしてやりながら、グラスを傾けているなんでいうのは、老年に近い証拠じゃないかと思うわけだよ。非男はまた非難なんだと思うよところでね、今日、おれがお嬢さんにいいたいってことは、おれの老醜についてではないので、最近の二十代の男のことなんだなあ。つまり、お嬢さんの結婚の相手になる青年たちのことなんだよ。スナ クやバ で見ていると、ほんと、なきけないなあ。凄さがないんだなあ。迫力がないんだよ、まったくなあ。それに、酒の飲み方も、老人みたいに、ちびちびやっているんだからいやになってしまうんだよ。そりゃ、中には、ぐいぐい飲んでいる奴もいるが、こういう奴にかぎって、変な理論みたいなものを振りかざしたりして、どうにもならんのだよ。大体、酒そのものをうまく飲みこなすことが出来ない男なんだな。酒を飲むのでなくて、酒に呑まれるタイプというやつなんだなあ。そりゃ、普から、こういう奴はいたさ。カラミ酒、喧嘩酒、毘理屈酒、愚痴酒というやつはね:::。おれのいってるのは、こういう連中を外してのことなんだよ。ごく一般の二十代なんだ。「学生時代の方がよかったなあ」などといって、虚ろな顔をして、グラスを傾けてやがるんだ。からか女たちに邦検われて、楽しそうにしているんだな。「うん、そういうことだね、君のいってることは正しいと思うよ」と、中年のおれが聞いていても、気持の悪くなるようなことをいっているんだよなあ。若くて、やさしくて、ものわかりのいい奴っていうのは、本当に気持の悪いもんだよなあ。男のやさしさなんてものは、のべつまくなしだったら、いやになるぜ。つまり、そういうのは、たしかに性器は男のものをつけているけれども、性格は、男のものじゃ決してないんだよなあ。

性器は男、性格は非男というのはいやだよなあ。あめ昔は 111女のくさったような男とか、女々しい男という表現をしたもんだったが、今じゃ、非男という表現がぴったりするように思うんだよなあ。非男を非ダンと読むか、非ナンと読むかは好きずきだけれども、おれはね、非ナシと読みたい。非男はまた非難なんだと思ったりするんだよ。それも、俗にいう非難ではないんだよ、おれのいうのは:::。難儀なこと、難題が起った時に、これら非男は、いち早く逃げはじめるんだなあ。-’、色やさしさは、たちまちズルサになってしまい、自分だけ創ロのない人聞になろうとしてしまうわけだよなあ。お嬢さん、この非男のやさしさが、実は逃亡手段、逃避の方法だったと気付いた時は、すでに時遅しなんだからねえ。「君がやるといったから、君の失敗は、君の力で処理しろよ」とか、「だから、ぼくは、妊娠したならどうするんだと問いただろう」4などと、ぬけぬけいう。責任の所在などはどこにもないのだ。ま、こういった男は、ヒモ予備軍とでもいうのかなあ。表面的にはやさしいんだが、怠け者で、能動的ではないんだよ。なんとなく女にたかつてりや人生気楽でいいじゃないかという気持で、一生を過ごしてやろうと考えているものなんだな。無気力なんだよ。害にもならない人間だったらいいけれど、実は、こういうヒモ的人聞は、一番の害になる男なんだからなあ。男のやさしさってものは、そんなもんじゃないんだよ。むしろ、もっと荒々、,しい能動的な行動の聞に、本人の気づかない裡にちらつと見せる思いやりが、男のやさしさなんだからな。「おれは、とてもやさしいんだよ」と、自分で意識している男は、本物のやさしさなんかもってはいないんだよ、お嬢さん。非男に気をつけてもらいたいなあ。やさしさの仮面をつけて、なるべく気楽に生きていこうと考える男を見ぬいてほしいもんだなあ。子供をだっとしてくれる。料理を手伝ってくれる。留守番をしてくれる。なにかと気をつかってくれる。これらを無気力で生きたいための手段に使っている男とは、きっぱり手を切った方が女の幸せだよ。それすらせずに無気力なら、もう非男どころか、災男だな。男のやさしさは嘘若さの中の安定は魅力ないよこの間ね、あるモデルと話をしていたら、突然、彼女がいうんだなあ。「あたし、中年って大好きよ」というんだなあ。「へえ、そうかねえ」おれも、思わず、にたりとするじゃないか。

二十一、二の、美人にそういわれりや、非行中年のおれなんか、血が騒ぐからなあ。「どうしてか」と訊ねたら、「ものわかりがいいから:::」というんだな。そりゃ、まあ、たしかにモノワカリがいいかも知れないなぁ。たとえば、若い女性の失敗ぐらいは許せるかもわからない。あの心理は、若い女性が可愛いからじゃないんだよ。年齢が半分ぐらいの女性がなにか失敗おとなげをやらかして、こんなところで、カ としたら大人気ないなあと思うからやらないわけだよ。ひろ彼女がいうには、少しぐらいの失敗とか悪戯とかは、寛い心で許してくれるから中年は大好きというわけだ。「それに、いやーなことがあっても、救ってくれるでしょ。慰めてくれるでしょ。お父さんのように:::」この女性は、父親に飢えているんじゃないか、エディプスコンプレックスのかたまり塊じゃないかと思ったんだな。「ところで、君のお父さん、お元気なのか」というと、すす「うん、五十で、会社員ょ。でもねえ、なーんとなく薄よごれてるのよ。煤けていてね、無口だしさ、相談にのってくれないのに、急に、ガ と怒鳴ったりしてね、家では、不発弾って呼んでるの。あたしのいっている中年の人は、お父さんのようなんじゃなくて:::そうねえ:::そう、そう、小百合ちゃんの御主人のようなのがいいわア」というわけなんだな。だというと、このおれが自の前にいるというのに、どうして岡田太郎さんがいいというん「だって、藤本ッサシは、炊事なんかしないでしょう」『やらんねえ」「洗濯は・・・・・・」「やらんよ」「掃除は・・・・・・」「鼻の穴と耳の穴ぐらいか」エッチなのかおれにはさっぱりわからんかったがねえ。「片付けは ・-食器のよ:::」「やらん」ところが、彼女のいうにはね、岡田太郎さんはなんでもやるんだそうだなあ。女性週刊誌に書いであったというんだよ。というと、ひやア、エッチねえというのだな。鼻の穴と耳の穴がどうして「だから、岡田太郎さんのような人が理想的なのよ。とてもやさしそうだし、なんだって出来る人でしょ。頼りがいがあるし、なにもかもが安定してるもの.・・・・」と、こうなんだよな。実際のところね、おれは、がっくりしたんだなあ。なにも、おれは、岡田太郎さんの生き方そのものを批判しようといっているんじゃないさ。岡田さんが共働きに向いていらっしゃると自認されることは自由だし、その生き方を誰も非難は出来ないと思うんだよねえ。